Food for Thought

気になった言葉とか、自前のイラストとか、デザインとか。

植物の精神



画像は最近の仕事で、ある企業さんのプレゼンテーション資料の表紙用に2案作成したうちのボツ案のイメージ部分なんです。

使用しているレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な絵は「ウィトルウィウス的人体図」といって、ルカ・パチオーリという数学者の著書「神聖比例論」の挿絵として描かれたものなのだそうですね。

このことはブック・オフで105円で購入した「ダ・ヴィンチ解読」(マイケル・J・ゲルブ著)という本に書かれていて知ったんです。(ブック・オフの105円コーナーって、タイトル見て面白そうに感じるとついつい買っちゃうんですねぇ…。)

この「ダ・ヴィンチ解読」という本、何だか啓蒙書的な傾向が強い本なんですけど、はしがきのところで書かれていることが、ちょっと引っかかっちゃうんですね。

ミチオ・カクという理論物理学者さんが、宇宙には地球より進んだ文明がある可能性を指摘して、その文明のレベルについて、レベル1は、“すべてのメンバーに充分な食料や衣類、教育が与えられている。生存や存続が脅かされることはなく、環境や生態系も保護されて、より良い状態を育んでいる。”という状態で、さらにレベル2は“メンバー全員が純粋意識を共有し、明確な意志の力だけで時空を超えて移動できるようになる。”という説を唱えていると書いてあるんです。

それでこの本は、レベル1にも達していない現在の人類を変えていけるのは、ダ・ヴィンチ的感性を磨いていくことだと示唆しているわけですね。

宇宙人って服とか着ているのかなぁとか思う以外は、何か反論したいわけじゃないんですけどね。「植物の神秘生活」(ピーター・トムプキンズ,クリストファー・バード著)という本に書かれている内容のことを思うと、植物って実はミチオ・カク博士言うところのレベル2とかの域にすでに達していたりして、すごくイケてる存在なのかもって、尊敬の念を抱く今日この頃なんです。

  1. 2008/05/05(月) 15:06:25|
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ソントク感情

先日、ラジオで「男と女はどちらがトクか?」っていうテーマで番組をやっていた。

僕は冒頭を聴いただけなので、どんな内容の番組だったのか知らないけど、その問いかけ自体が、何だか歪んでるなって思ったんです。

娯楽番組に目くじら立てるなって感じもするけど、会話の中で出てくる冗談とか男女不平等に関する社会問題を取り沙汰していたならともかく、日常生活における男女の損得勘定なんて、わざわざ番組のテーマにするのは、“世の中の気分”を煽りやすいマス・メディアにしてはちょっと自覚が足らないんじゃないのかなぁ。…僕の頭がカタイだけですかねぇ。

僕自身にしても、自分が過去に思い描いていたほどパッとしないなぁとか思うことがあったり、特定のことに関して勝ち負けや損得で一喜一憂することはあっても、生活全般について考えたら他人と比較できるものではないと思うんですよね。

当たり前だけど、どうアガいたところで自分自身から抜け出して、他者の経験をするなんてことはできないので、経験できることに不平等があっても、例えば同じ経験から喚起されることにしても人それぞれ異なるわけで、それはすなわち“経験の価値”を一般的な尺度で測定することなんてできないってことですよね。

自分という“乗り物”を乗り換えることは絶対的にできないっていう絶望感と、それでも自分という経験は、他の誰も経験することができないこれ一回きりのものだって了解するところから、希望とか自律性や他者を尊重する気持ち、ひいては人生の価値って生まれると思うんです。

とは言え、そんな風に考えるようになったのは最近だし、僕も人を羨んだり、他者の目に踊らされる性分は抜けきってない感じもあるんですけど…。






  1. 2007/12/07(金) 23:56:28|
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ネコガクール 5時限目

ワタシの家のネコは用をたした後にプラスチック製のトイレの壁面をひとしきり引掻くんです。

どうやら土をかけているつもりになっているらしく、“それはプラスチックだから、そんなことをしてもムダだよ”と言ってあげたところで、ネコの耳に念仏なんですね。

ネコがそんな行動を取ると、彼らを信望するワタシとしてはちょっと落ち着かない気持ちになったりもするのですが、英語でLet the cat out of the bag(ネコをバッグから出す)と言えば、“前もってこっそり教える”という意味にもなるように、実はネコの方もワタシたち人間の行動のどこかをスットンキョウに感じていて、“キミたちがしていることはコレと同じようなもんだよ”と身をもって教えようとしてくれているのかもしれないと思ったりするわけです。

…と考えてみたところで、ネコとコトバを交わせない以上、ここから先は人間が自覚できないことを探し当てようという試みになるわけで、それこそネコにでも化けてみないと困難なようにも思われますが、恐らくはいわゆる合理的な理性と非合理的な感情が織り成すチグハグな状況にそのヒントが隠されているのではないでしょうか。

ちょっと冷静になれば適切ではないと解る言動をしてしまったり、本来はどうでもいいような他者の活動に対して過剰に反応したり…。

…とここまで考えて思ったのは、普段は心に矛盾をきたすことなくクールに決めているように見受けられるネコが、今日もプラスチックのトイレを引掻きながら言わんとすることは、ひょっとすると、“わかっちゃいるけど、やめられないの〜。”と、さも同じ穴のムジナのようなフリをして、ついつい小難しく考えてしまいがちなワタシを安心させようとしてくれているのかもしれません。

いやはや…、ますますネコには頭が下がります。



  1. 2007/10/23(火) 00:22:15|
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スゴイってカンジ

何だかこのところちょっと忙しい。

僕みたいな仕事スタイルだと忙しいのはありがたいことなんですけど、でもこの“忙しい”って、“心”を“亡くす”って書くんですよね。

以前、舞踊家の加藤文子さんに、“人”の“為(タメ)”と書いて、“偽(ニセ)”になるって聞いたことがあるんだけど、思えば、漢字ってなかなかイミシンですね。

ところで、今年の5月にお亡くなりになったスタンリー・ミラー博士は、大学院生の頃に、原始の地球の大気に含まれていたとされる気体で満たしたフラスコに、カミナリを想定した火花を散らせる実験をしたそうなんですね。それで、その数日後にタール状のアミノ酸がフラスコに付着しているのを発見して、生命の誕生に関するもっともらしい方法を見出したわけだけど、このカミナリを“稲妻(イネの妻)”なんて呼ぶことを思うと、古代の人たちはそんなことはとっくに知っていたのかもしれません。…凄いなぁ。

ちなみにこの“凄い”という文字は、“氷”を意味する“にすい”に“妻”と書くわけですが、それはつまり…、“スナックのママ”ということでしょうか。

なるほど、スナックのママは今も昔も凄いっていうことなんでしょうねぇ…。それにしても、そんなに大昔からスナックのママがいたのかどうか知りませんが、古代の人たちの達観ぶりには恐れ入っちゃいます。




さて、前述の加藤さんが今月の25日と26日に麻布die pratzeの「ダンスがみたい!9」のイベントで、“らんど・ざ・らんど”という憲法9条を題材とした公演を行います。

今年は、ちょっと暑すぎて地球温暖化のことも気が気じゃありませんが、平和について考える機会の多い8月ですし、締めくくりにこのイベントに足を運んでみるのもよいのではないでしょうか。

加藤さんはスナックのママだったことはないと思いますが、“凄い”に違いありません。

  1. 2007/08/18(土) 03:18:15|
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ノウこそはすべて?

もう2年半くらい前のことだけど、ある学会でアメリカの有名大学の学長さんが、科学者で功績を残す女性が少ないのは、脳の生物学的構造の違いによる可能性があると話したら、居合わせた同じく有名な工科大学の女性学者さんが、怒って帰っちゃったのだそうですね。

でも、実際のところ人間の脳って、生まれた時は同性同士の個体差はほとんどないらしいんだけど、構造的には男女の性差があるんだそうで、特に左右の脳をつなぐ“脳梁”という部位は、女性の方が太いんですってね。さきの学長さんは、きっとこの辺の説明が、唐突過ぎたんだろうなぁ…。

そこで僕が勝手に想像するのは、左右の脳の連絡が上手く行かない男性は、脇見防止のガードをされた競走馬みたいなもので、何かに夢中になるとそればっかりになりがちな一方で、女性は何かをしていても、晩ご飯のおかずのこととか、ソファに合うクッションの柄のこととか考えたいからサッサと済ませちゃお、なんていうことになってるのかなって思うんですね。きっとトータルバランスがいいんでしょうねぇ。

ところで、最近ある女性の友人に本を貸していたら、なかなか返す機会がないからと、郵送してくれたのはいいんだけど、絆創膏が同封されていたもので電話で理由を聞いてみたら、“仕事中にカッターで指切ったりしても絆創膏なんか使わないでティッシュで抑えるだけって言っていたから”なんて言うんです。その気の使ってくれように僕は呆れつつもカンゲキしちゃったけど、ここで、“さてはオレに気があるのか?”なんて思うのは、やっぱりオトコの短絡なのかなぁ…、どーなの?

まぁ、いずれにしてもどっちがどうだろうと、張り合ったりするよりは、“お互いさま”の感覚が大切なんでしょうね。



さて、今回は、“ボクは三日月を見ていたけど、キミは月のすべてを見ていたんだね”なんて、オトコとオンナの機微をメルヘンチックにうたった曲をご紹介します。
学芸会にでも飛び入りした風なラフな演奏で、“歌詞知っていたら一緒に歌ってね”みたいなこと言っちゃうマイク・スコットって、いい人なんだろうなぁ…。きっと脳梁もどこぞの学長さんより太いんじゃない?

The Waterboys - Whole of the Moon


  1. 2007/07/02(月) 01:18:10|
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無意識の住人たち

“無意識は他者のディスクール(言説)である”というのは、精神分析学者のジャック・ラカンのコトバですね。

このコトバの意味するおよそのところは、僕たちのアイデンティティは、自分の生い立ちに影響を与えた人々をはじめとする関わりあいのある人たちや、社会通念、メディアなどの他者のコトバによって成り立っているということですね。この辺の話は興味深いもののややこしいので端折るけど、ちょっとかじっただけだと、自分自身の主体的な意思決定って無理だよって言っているような感じなんだよね。

でも個人のアイデンティティを、いわゆる“他者の言説”からなるモジュール単位(システムとしての機能を有するさまざまな“部分”)の集合体みたいなものだとイメージすると、それゆえに状況次第で“部分”同士のいろんな組み換えがおきて反応の仕方も多様になるわけですよね。それに加えて僕は、そこには知識や経験で左右されない核みたいなものがあって、それが意思決定の重要な役割を司って、個性を形作っているように思うんですね。

ただ、その意思決定を行う過程では、前述のような環境から受ける影響が多大に絡むので、特にマイナスの結果をもたらした事柄などを客観的に評価しようとする場合は、それなりに慎重にならないといけないだろうなって思うんです。そのうち裁判員制度が始まるとなると、そういったことに対する理解を今まで以上に深めようと努めることは、誰にとっても必須なことと言えるのでしょうね。

ともあれ、個人のアイデンティティを“部分”の集合体としてとらえると、例えば会社や学校みたいな現実の組織と同様に、時には脱線気味の問題児や怠け者が見つかったりすることもあると思うけど、そんな彼らは、一方ではムードメーカーとして周りを和ませたりなどと意外な長所を持ち合わせていたりすることも多々あるんですよね。

ところが、最終的な意思決定を担うリーダー的な“部分”が、マジメすぎたりすると、気まぐれで足並みが揃わない連中が煩わしくて、ケシカラン!などとムヤミに封じ込めるなんてよくありそうな話ですね。でも、そんなカタブツな首脳陣に限って何かしらの問題に直面して思いつめている時なんかのふとしたスキを突かれて、クーデターが起きたりして足元をすくわれちゃうんですよね。

その結果、露呈するふとした行動が女の子のお尻を触っちゃうとかだったりなのかもしれません。

最近では、こんな事態も枚挙にいとまなく、“あんな立派な人が…”というコトバが、もはや死語と化すほどの勢いですが、そうなってからでは、“ここはどこ?ワタシは誰?”と言ってみたところで、時すでに遅しです。



ところで、先日、夜遅くまで友人とお酒を飲んだ後で、僕の仕事場で二人して寝ちゃったのですが、目が覚めた時にその友人に“『ヨーロッパジョセイノハダカガミタイ』って、寝言を言っていたよ”なんて笑われちゃったんです。

僕のボキャブラリーには、そんなコトバは存在しないはずなので、“それは、『ヨーロッパの助成の方はまだみたい』って言ったんじゃない?”と苦肉之計で取り繕ってしまったのですが、それにしてもヨーロッパから助成金を受ける話など覚えがなく、そんなケシカラカンことをつぶやく問題児が、自分の中のイッタイどこに潜伏しているのか、目下のところそのアジトを捜索中なんです。


  1. 2007/06/07(木) 15:17:16|
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ネコガクール 4時限目

ネコは、唯我妄想主義者であるとともに大いなる民主主義者でもあります。

ところで、ワタシは、最近、人間の大人の世界にもイジメが存在すると知り、たいそう驚いてしまい、これはヒョッとしたら、イジメられっ子も多数決で決められてしまうような、“民主主義”に対して、いささかかたよった解釈が一因にあるのではないかと感じてしまったのですね。

かく言うワタシは十代の終わり頃まで、“灯台もと暗し”を“東大モトクラシー”という学生運動にでも関係したコトバかと思い込んでいたりして、ここで“民主主義”について仰々しく述べるのもナンですが、その大前提を確認しておくと、“ボクはボクだし、キミはキミでいいんじゃない?”という、“他者の自律的な多様性を認めて尊重する”主義ですよね。
そして、ここで言う“他者”は自分自身や自然環境も含まれるワケですね。

その点について、ネコは…、え〜、小動物をオモチャにするなど、困った一面も若干ありますが、一万年近くも人間の愛玩動物として飼いならされたあげく、今さら路上に捨てられてサバイバル生活を送るのは、シンドイでしょうに、そんな崖っぷちな局面においてさえ、“アンタにあげた癒しの日々を、今さら返してとは言わないミヤァ。”と、これまたケ・セラ・セラ・アンド・ツイストな調子なんですね。…まぁ、状況によってはバケて出るかもしれませんが。

ちなみにネコを“忘恩の徒”などと呼ぶ方もいるようで、それも一理あると認めざるを得ませんけれども、ワタシたち人間の自然に対するエゴイストぶりを省みれば、ニャンニャカイミャンミャです。

もちろん、多様な考えを持つ者同士が出会えば、ルールと協議は欠かせないので、このネコガクールにおいても、ネコについて、ネーじゃね、コーじゃねと議論している際も、当のネコは、感情をアラげて相手に噛みついたりせず…、っていうか、え〜、唯我妄想に浸っているのか、あるいは宇宙と交信しているのか…、ほとんどワレ関せずでして、この点についても少々歯がゆいところではありますが…、とにかく!ワタシが思いますに彼らはミャンシュ主義者に違いないのです!!(汗)

illuminati


さて、今回は、見せかけの正義でキバをむくことが正当化されるような社会において、心強い活動をされている方々のムービーをご紹介したいと思います。映像はクールですが、主張はとてもホットです。ネコもそろそろ“ダマッちゃいられないニャ〜”と感じるかもしれません。

WeWillNotBeSilenced

有名ですけれども、マーティン・ルーサー・キング牧師と言えば、マハトマ・ガンジーの思想を信望して、“愛だけが憎しみを消すことができる”と、公民権運動において、非暴力による抵抗をつらぬいた偉人ですね。
一方、映像の途中で、世界経済を牛耳っている紙幣にあしらわれた光る目を持つピラミッドの絵が出てきますけど、これって、“イルミナティ”といって、これもなかなかのイワクつきですよね。
  1. 2007/05/03(木) 13:43:51|
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